極彩色に彩られた一対の象は、まるで万華鏡を通して見る蜃気楼のようです。日本でも象の存在は仏教を通じてよく知られていましたが、初めて生きた象の来日が記録されているのは15世紀初頭であり、その後に明の船が現在の大分県へ象を上陸させたのは、1575年のことでした。そこで見物人が目にしたのは灰色の巨大な象であったはずですが、その強烈な印象が100年後に伊万里にて制作されたこの色鮮やかな象へと昇華されているのかもしれません。
島国である日本にとって、海のはるか向こうにある異国は長いあいだインスピレーションの源でした。人々は乏しい情報を通じて想像を膨らませ、それぞれの異国を艶やかに思い描いたのです。
16世紀なかば、ポルトガル人の漂着によってポルトガルやスペインとの交流が始まり、そこからもたらされた数々の目新しい文物の中には世界地図も含まれていました。日本はそこで初めて、文字通り世界を目の当たりにしたのです。『駿府記』には、1611年に徳川家康が《南蛮世界図屏風》の前で家来と外国の事について議論したという記述がみられ、当時から指導者が世界情勢に興味を持っていたことがうかがえます。17世紀初頭に日本で作られた、宮内庁所蔵の世界地図はオランダ製の地図を元にしており、世界地図の周囲にはロット114番と似た諸民族の図像が描かれています。
ロット114番の作品には人物の横に「あめりか」「おらんかい」などの地名が描かれています。このような人物図は後に世界地図から独立して《万国人物図会》として単独でも制作されるようになり、江戸時代を通して愛好されました。当時の日本人が未知の国への強い興味と憧憬を持っていたことが感じられます。
貿易を通じて醸成された異国趣味は、日本だけが一方的に享受したのではなく、輸出漆器を中心とした日本の美術品の愛好という形で西欧でも流行しました。来日したイエズス会士達によって自国に持ち帰られた漆工品は、珍しさとエキゾチックな優美さから大きな人気を博し、注文制作が行われるようにもなりました。ロット112番の書見台には、イエズス会の紋章であるIHS (Iesus Hominum Salvator 「人類の救世主イエス」)があしらわれ、螺鈿と平蒔絵で装飾されています。
また、ロット113番の洋櫃は地を埋め尽くす文様と強調された縁取り文様が、日本漆器の伝統の枠を超えた典型的な南蛮趣味を感じさせます。
17世紀に入りオランダ東インド会社が日本との貿易を独占するようになると、 何もない空間を保つ山水画を基調としたより日本的な作品が尊ばれるようになりました。ロット107番に見られるような様式の箪笥はヨーロッパ全土の貴族の調度品として好まれ、古くなると解体して新たな様式の家具に再利用されるなどして、18世紀まで愛好されました。
ポルトガルやスペインでは聖遺物を納める収納箱として利用されていた経緯を見るに、日本からもたらされた漆器が高価なものとして珍重されていたことが推察されます。
1639年のポルトガル船入航禁止以降、日本はおよそ200年に渡って鎖国政策を取り、海外との貿易は厳しく制限されることとなりましたが、長崎の出島など全国四ヶ所を窓口として定期的な貿易や交流が続けられました。オランダから輸入された洋版画が、遠近法などの手法を日本画や浮世絵に持ち込む役割を果たした一方で、西洋画の表層的な物真似に陥る作品も多くありました。
川原慶賀(1786 – 1860?)は出島でフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトと働き、西洋絵画理論的な教えを受けたうえで、日本画と西洋画を混成した画法を編み出した数少ない絵師だったと言えるでしょう。
1853年のマシュー・ペリー来航をきっかけに日本は開国、江戸幕府の崩壊へと動いて行きます。17世紀初頭に描かれた《万国人物図》中のアメリカ人像に親しんでいた江戸の庶民にとって、黒船の来航はどれほどの驚きだったことでしょうか。
200年以上に及ぶ「鎖された国」の中にあっても、江戸時代を通して日本は西洋と交流を保ち続け、幕末にかけては西洋画の影響を取り入れた作品が数多く描かれるようになりました。内と外の芸術家とその庇護者達の交流によって、鎖国時代にあっても日本の芸術は大きなダイナミズムの中で絶え間なく動いていたのです。