日本美術

大波を越えて - 日本美術と海

By ドゥオン 彩子
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「海の日」という祝日にもひとつ象徴されるように、島国である日本とそれを取り囲む海とは、密接な関わりを持ってきました。豊かな恵みを日々もたらしながらも時に荒ぶる海は、日本美術の中でも重要な主題の一つです。

葛飾北斎の《神奈川沖浪裏》は世界中で広く知られる日本美術作品であると同時に、荒れ狂う海という自然の猛威に対する人間の小ささを象徴的に表した傑作です。他方で、フリーア美術館が所蔵する俵屋宗達の《松島図屏風》は、ダイナミックに移り変わる海の表情を最も巧みに描写した作品と呼べるでしょう。波は幾重にも重なり合って渦を巻きながら、六隻一双の画面いっぱいに躍動しています。右隻では松の生えた岩場を飲み込まんばかりに猛る海は、左隻の意匠化された砂浜に向かって穏やかに凪いでいき、まるで植物のようにも見える独創的な波頭など、海が持つ多彩な顔が豊かに描き出されています。荒波が打ち寄せる「荒磯」と穏やかな「州浜」がひと続きに描き出された本作は、全体的に明るい雰囲気に満ち、海がもたらす豊穣への感謝と祝いの気持ちに包まれているようです。

恵みをもたらす一方で、海は得体の知れないものが住まう場でもありました。舟幽霊や海坊主など、海の怪異もよく浮世絵で好まれたテーマです。歌川国芳《大物浦平家の亡霊》では、海自体が怪異に変化したような恐ろしい様が描かれています。壇ノ浦の戦いで平氏を滅ぼした源義経は、その後実の兄頼朝から追われる身となり、船で西国に逃れていく途中で平氏の亡霊に襲われます。海は現実離れした大波へと変化し、背後に蠢く亡霊に操られて義経の一行を飲み込もうとしています。亡霊よりもむしろ海が主役に描かれた本作は、時に意思を持ったかのように荒ぶる海への根源的恐怖が表されているようです。

今年の春、森美術館で開催された六本木クロッシングにて、3人から成るアーティストチーム「目」が発表した《景体》は非常に大きな存在感を持って、鑑賞者に強烈な印象を残しました。遠くから見える景色としての海に近づいていっても、そこで見る波やしぶきなどはもはや海水としての物体であり、景色として眺めた海それ自体には決して近づけません。美術館に現れた景色と物体の中間としての《景体》は、平面で表現されてきた海とはまったく違った迫力、驚きや違和感をもたらし、私たちの足元を揺らします。

杉本博司の写真シリーズ《海景》の海は、これまで見てきた海と比べると、あまりにも静かすぎるでしょうか。モノクロームの構図の中央を横切る水平線と空。日本海、地中海、北極海など世界中の異なる場所で異なる時間に撮影されたこれらの海は、「Caribbean Sea, Jamaica, 1980」「Ligurian Sea, Saviore, 1982」といったキャプションがもたらそうとする固有性に比べて、まったくの無個性にも思えます。しかし、「原始人の見ていた風景を、現代人も見ることは可能か」という杉本の当初の問いに立ち返る時、余計なものが極限まで削ぎ落とされた海そのものと、海が孕む原始の圧倒的な生命力と混沌とがふつふつと沸き上がってくるようです。

Hiroshi Sugimoto, Caribbean Sea, Jamaica, 1980 © Hiroshi Sugimoto / Courtesy of Gallery Koyanagi

杉本博司が設計を手がけ、2017年に小田原にオープンした「小田原文化財団 江之浦測候所」は、杉本が「心のふるさと」とも呼ぶ広大な海を望む高台にあります。アートの起源を古代人が「天空のうちにある自身の場を確認すること」と考える杉本が作り上げたのは、冬至や夏至など一年の太陽の軌道変化を尊び測候する場でした。壁面に《海景》が展示されている「夏至光遥拝100メートルギャラリー」の先端からは、まるで《海景》のような水平線から、古代人も見つめていたであろう夏至の太陽が昇ります。