序文
ニコラス・チョウ
アジア会長/中国美術部門ワールドワイド部門長兼会長
私と平野龍一氏との友情は、彼がこの宋磁の美しいコレクションを集めはじめたのとほぼ同時期である20年以上前に遡る。我々の職業にありがちではあるが、当初お互いの絆は、まず作品を鑑賞した時に湧きおこる感情を共有すること、それは釉色のニュアンスについて、または高台の削り方などについて語り合う喜び、また時に意見を戦わせることなどで深まった。
長年彼を知っているが、その間、今回紹介している宋磁の数々が彼の本棚や机の上に何気なく置かれているのを幾度も目にしてきた。ただ、まとまった形でコレクションを見る喜びにあずかったのは、最近になってからのことだった。
私にしてみれば、龍一自身の性格とその審美眼は切り離せないものであると感じる。この陶磁器の優れたコレクションは、それ自体がまるで彼の日記であり、彼の訪れた場所や出会った人々との旅の記録であり、その時々の瞬間をとらえている。そして彼が追求してきた宋磁の繊細な感覚は、奥ゆかしい黒釉の茶入れや、希少な鈞窯の小盃、また圧倒的な力強さを表す梅瓶などに見ることが出来、彼が費やした20年間を十分に物語っている。いかなる作品を蒐集する場合でも、その価値に関わらず、同様の心配りと繊細な審美眼によって求められてきた。
コレクションを構成する作品のうち、欧米各地で求められた作品もあるが、多くの作品が日本伝来のものであり、いくつかの青磁や天目の作品の中には長きにわたり受け継がれたものもある。このコレクションをご覧になる多くの人は、日本人の宋磁における美学が結晶したものであると感じるだろう。それは、宋時代以来伝世した作品の数々や、また中国の思想体系を学ぶことで、その後幾世紀にもわたり日本人が育くんできた美学である。実際私にはなぜか、今日の日本における美的感覚は、古代中国よりもたらされた哲学が、中国のようにその後の歴史的流転の中で失われることなく、そのまま最も純粋なままの形で遺されたもののようにも思える。
平野の名前は、中国美術における優れた審美眼で知られ、20世紀の大半にわたり世界トップのコレクションや名品の数々を扱った事で歴史に刻まれている。この輝かしい美術商の三代目である平野龍一は、平野古陶軒、そして残念ながらこの図録の出版前に逝去された彼の父、故平野龍夫氏に敬意を表するため、今回、この宋磁のコレクションをオークションで紹介する。
このオークションを日本のある伝説的美術商の遺した偉大なる功績に捧ぐ。
50 Years New in Asia: The Legacy of HIRANO KOTOKEN

宋磁の美
平野 龍一

私は平野古陶軒3代目に生まれ、東洋美術を身近に見て育ちました。幼い頃から家業として美術を大切に思っていましたが、美術がいかに楽しいか、生きるために不可欠なものであるかに気付いたのは少し時間が経ってからです。世界中の美術館を観てまわり、実際に作品に触れることで、美術品の必然性を知り、作品の内奥を読み解くことが、自らの愉しみへと少しずつ変わっていきました。私にとって美術とはかけがえのないものであり、いつも自分のそばにある喜びは、心と暮らしを豊かにしてくれます。
私は、美の本質を見極めるという点では、宋磁ほど難しく、また面白いものはないと思います。釉色、文様、姿形のほんのわずかな違いが醸し出すある種の緊張感と、他のものとは比較しがたい端正で高潔な雰囲気をまとっており、そこには人を魅了させる普遍的な美があります。そして、宋磁をコレクションすることはもっとも難しいと言えるでしょう。評価が確立された分野とは違い、高価なものを集めることで魅力的なコレクションになるとは限りません。ひとつひとつ時間をかけ、選び抜いたコレクションからは、蒐集したコレクターの美に対する姿勢、生き方が伝わってきます。作品との出会いと別れを繰り返していくことで、自分だけの美のかたちが姿を表してくるのです。いかにコレクションを輝かせ、美しくできるかはその思いの強さと運ですが、そこにこそ本来の楽しみがあり、故に人の心を動かすのです。
今回ご覧いただく宋磁コレクションは、私がいま考えているひとつの美のかたちです。悠久の時を経て、品格と耽美を併せ持つ宋磁の世界をお伝えできましたら幸いです。